2013年10月22日火曜日

“自分”という重き鎖

さてさて、旅団の第二回公演の稽古も本格始動しての稽古が、今ガシガシと始まっております。
今回は総勢10人!の稽古場です。
とはいえ今まで全員がそろった日はないので、10人の稽古場、とは言えません。
が、そろそろ揃わねばいかないでしょう。かくいう私も芝居やらスタッフ作業やらプライベートの問題やらでテンションとモチベーションが様々です。芝居だけに集中したいのにね。

そんなことは置いといて。
芝居の稽古は進みます。今回は初参加組が多いので芝居の稽古も初歩的なことからしてたりします。つまりは演技指導から、みたいな。まあ、それは十分、想像できたことなので文句は言いません。そして自分の演技の幅なんてものは最初からそうそう広かったりはしないものです。(人はそれを天才と呼びます)
で、演出をつけてていつも思うことなのですが、みんな“自分”という殻(または型、キャラ、鎧、視点etc)の強いこと強いこと。

芝居は人を演じることです。つまりは他人。自分ではなく。
ですが演じるときには自分の身体、声、顔、頭、考え方などで表現しなくてはいけません。ですが時おり、演じてる最中に(照れたり笑ったりして)普段の自分が出てくるのです。
実は稽古しているとき、それはすごく邪魔なのです。物語を途中で中断させられるのです。見ていてこれほど苦しいことはありません。
たぶん(無意識に)演技している自分を見ていて、「おい、ちゃんと演技できてるのか?」とか「これで合ってんのか?恥ずかしくないのか?」というような、“マイナスで見ている客観的に見てる自分”がいるのだと思います。
その気持ちは十分わかります。かつて僕がそうでしたから。

人間は社会的な生き物です。社会や世間とどうしても付き合っていかなければいけない動物です。(引きこもっている人でも社会的です。ネットや携帯がそれです)その社会的な世界に生きる自分が、客観的に見ているのだと、僕は思います。
その「(社会的な)自分に引き戻そうとする視点」を僕は、“自分”という重き鎖、と呼んでいます。

自分というものは簡単に捨てられないです。当然です。だって自分なのですから(笑)。
自分というのは、今まで生きてきた、その根幹たる部分です。自分が自分であるための(アイデンティティたる)所です。
しかし、芝居で演技するときには少し厄介な話になります。だって演技するってことは、“自分”にいながらにして全くの“他人”になること、であったりするわけです。
自分の身体を使って(自分にはこの身体しかないからあたりまえですが)時代も場所も違う、他人を演じるのです。そりゃもう大変です。自分の頭の中では全く知らない人間を、自分が演じようとしているのを見ているのです。そりゃ無意識に照れくさく、恥ずかしくもなります。

が、
芝居をすると、舞台に立つを決めた以上、立ってもらわないと困るのです。僕は主宰&演出という立場上、役になりきって立ってもらわなければ来てもらったお客さんに申し訳がありません。
役者としてもそうです。いくら友人とはいえ、いくら親姉弟とはいえ(親ならなんでもいいか…)、呼んだ方たちに「楽しかった!」と心から思ってもらわなければその意味はないと思います(いや、意味はあるかもですがね)。
そんな舞台に、普段のいつものあなたが出る(立つ)のです。想像してみてください。んー・・・。

きっと自分を消してしまうことはできないと思います。ですが、なんとかすることはできます。それには僕は、“集中力”と“想像力”だと思っています。
客観的に見ている“自分”を無視し、意識しなくして、その役が生きる場面を想像する・・・そうすれば(きっと)自分を見ているマイナスな自分を抑え、自分を後ろから見てくれ(後ろから見守っている)自分になる気がするのです。きっと。

とりとめのない話と勢いで長くなりました。この話の突っ込んだ部分はまた次回。